知覧特攻平和会館を見学した

今年度 3 週連続 4 回目の鹿児島出張の際に、出発を 1 日前倒しにして、知覧特攻平和会館に行ってきた。

空港から鹿児島中央までバスで 1 時間、そこでバスを乗り換えて知覧まで 1 時間 20 分かけて、現地に着いたのは 14 時過ぎ。神奈中みたいな普通の路線バスで峠道をガンガン上がっていった。
バス停から会館に向かう道沿いにはたくさんの灯篭が並んでいる。これらが全て灯ったらどういう光景になるだろうかと想像しながら会館に向かう。

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入館したら、ちょうど語り部さんの話が聞ける時間で、おそらく特攻隊の方々と同世代くらいと思われるお爺さんが、写真のパネルや飛行機の模型等を使いながら、特攻隊ができた背景や攻撃方法に続いて、10 人ほどの特攻隊員がどのように暮らし、どのような遺書を残して死んでいったか、などを語ってくれた。具体的な日付や数字なども全て頭に入れて説明してくれる記憶力に驚きながら、なぜこのようなことになってしまったのか考えつつ、月並みだがやはり二度と戦争を起こしてはいけないという思いを再認識した。過去の戦争について「○○人が犠牲になりました」というようなデータを知ることと、一人一人がどのように生き、死んでいったかを知る事とは意味が全く違う。そういうことを改めて感じることができたことも良かったと思う。

展示室に戻ると、数百人の特攻隊員の写真や遺書、遺品等が所狭しと保管・展示されていて、その量に圧倒された。とても 1~2 時間では見きれない。時間があったら武家屋敷も寄って行こうか等と思っていたが、全然甘かった。そもそも特攻隊に関する展示をあれだけ見た後で、武家屋敷見物に行くような気分には到底なれない。行くなら早めの時間に武家屋敷に行って、そこを見てから平和会館に行った方が良いと思う。

また、隣の「知覧ミュージアム」では、ちょうど義烈空挺隊に関する展示も行われていたので、こちらも合わせて見学した。

ところで、ここに行こうと思った直接のきっかけは、大和市吹の定期演奏会で「三角の山」を演奏することになり、プログラムノートを書いたこと。楽譜に添えられていた作曲者自身による文章を参考にして、次のような原稿にまとめた。

酒井格/三角の山

タイトルの「三角の山」とは、鹿児島県にある開聞岳(かいもんだけ)のことで、見事な三角錐を形成していることから「薩摩富士」とも呼ばれています。第二次大戦末期には、この山の北側にあった旧知覧町の陸軍飛行場から飛び立った特攻隊が、まず開聞岳を目指して飛び、開聞岳を見ながら家族に別れを告げてから、南方の戦地に向かったと言われています。

作曲者の酒井格は、このように特攻隊として出撃した多くの若者を見送ってきた美しい成層火山をタイトルに据え、二度と戦争を繰り返して欲しくないという願いを込めて、この曲を作曲しました。作曲者自身が楽譜に添えたメモによると、「前半は輝かしい若者の姿、そして迫り来る運命への不安。中間部では大切な人との別れ、そして後半は、未来ある多くの若者たちが南の空に散っていった様子」を表しているとの事です。後半部分は前半と同じ軽快な6/8拍子で、躍動感のある展開の後に明るくドラマティックなフィナーレを迎えますが、作曲者の動機を踏まえて考えれば、これは決して過去の戦争行為や、特攻で命を落とした若者達に対する賛美ではなく、これからの平和な時代を担っていく若者達に対する期待が込められていると考えるべきでしょう。

原稿自体はプログラムのページ数の制約からボツになり、一部を司会者原稿に流用するにとどまったが、原稿を書くためにいろいろ調べる中で、知覧に特攻平和記念館があることを知った。そういえば今年は鹿児島出張あるじゃん。しかも4回も (^_^) 。というわけで出張前後で予定が空いている日を探して、宿を一泊余分に予約した。
もちろん選曲の際に反戦的な意味合いを意識していた訳ではないし、原稿にもそのようなメッセージを込めたつもりは全く無いが、この曲を演奏したことをきっかけにして見聞を深められたことは良かったと思う。

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