昨日また見に行った。一つの映画を映画館で 4 回も見たのは初めてだと思う。
プログラムはずっと売り切れだったので買えなかったが、増刷したようで、4 回目にしてようやく購入。
この映画については初めて見に行った後にも書いたが、1 回見ただけではこの映画の魅力を半分も味わえないと思って、ズルズルと引きずりこまれた結果、次のような経過をたどることになった。
- 1/1(日):鑑賞 1 回目
- 1/9(火):鑑賞 2 回目
- 1/11(水):原作コミック全 3 巻購入
- 2/19(日)「町山智浩の映画ムダ話 39 こうの史代原作、片渕須直監督『この世界の片隅に』。何度見ても新しい発見がある、あまりにも濃密な本作に隠された魅力の数々を、片渕監督との会話を織り込みながら語ります。」購入
- 2/19(日):鑑賞 3 回目
- 2/27(月):劇場版アニメ公式ガイドブック購入
- 3/8(水):鑑賞 4 回目
4 回目は町山さんのムダ話と公式ガイドブックで映画の背景やディテールを勉強し、どんな描写も逃すまいと、ちゃんと乱視鏡をかけて臨んだ。そのおかげで、また 3 回目までとは違った気持ちで見ることができた。
町山智浩さんも指摘されていたが、この映画には、何の説明もなく差し込まれた、ごく短時間のシーンがたくさんあって、しかも全てストーリーの中で重要な意味が含まれている。油断していると見逃してしまうような短いシーンだが、その意味を知っていたのと知らなかったのとでは、映画から受ける印象が大きく変わる。
例えば、すずさんが身籠ったかと思って病院に行ったら実はそうではなかった、というシーンはほんの一瞬で、実は 1 回目に見たときは何を表している場面なのか理解できなかった。こんな大事な出来事なのに…。
また、細かい描写まで周到な調査に基づいてリアリティが追求されているのは以前に書いたとおりだが、全体のストーリー構成や、その中での登場人物の状況や心情の変化、それらの行動やセリフへの現れ方まで徹底的に考え抜かれてあり、のん(能年玲奈と書きたい)も監督との議論を通して、それらをしっかり消化した上で演じている。
例えば、すずさんは自分の気持ちを口に出して言うことができないために、内なる声としてのセリフが多い。これが物語の終盤に向けて、呉の北条家でのアイデンティティができてきて、家族と話せるようになるに従って、内なる声のセリフが少なくなってくるし、すずさんのセリフも広島弁から呉弁に変化していっている(らしい)。こういうことを知ると、戦災孤児を連れて呉駅に着いたすずさんの「ここが呉」という何気ない一言を聞くだけでジワっと来る。
作り手の意図を知れば知るほど、より深く味わえるという、まるでクラシック音楽のような、見ごたえのある映画。見ることができて本当に良かった。